● 歌イビトの記。

 
 
無伴奏・独唱の【歌イビト語ル】こと、タッシー田代が記す、徒然。

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# 映画 (5月中旬)



ようやく再び、映画の世界に浸れる日々がおとずれてくれた。



身のまわりの理不尽さをしりぞけ、

人とのしがらみからも解き放たれ、

見たこともない世界を目にできる時間。

知らなかったことを大いに学べる時間。

かつて感じたことのない、尊いものを得られる時間。




1943年のものから出来るだけ順に拝見し続けている黒澤作品も、

遂に1950年代に差し掛かり、

いよいよ私が観たかった時期の作品群を体験しているんだと実感、

思わず武者震いさえするくらいだ。




◆ 『 醜聞(スキャンダル) 』  1950年  日本




勝手にマスコミがでっち上げた、画家と歌手のロマンス騒動。

みすぼらしい弁護士の情けなさ。

病床の娘の愛おしさ。

そして庶民の、庶民たる侘しさ、世知辛さ。





数ヶ月前に拝見した『野良犬』もそうだったが、

素晴らしいセリフのふしぶしが、心に残る。


加えて、胸が熱くなるのは、

(ご覧いただくのが何よりの場面なので詳しくは書かないが)

「聖しこの夜」が歌われるシーン。





昭和20年代の貧しき民家をここまでメルヘン仕立てにできるのは、

やはり黒澤監督以外にいないだろう。


また、大衆酒場で酔客たちに “斉唱” される「蛍の光」も、

しがない民の嘆き節に聴こえてくる。

この酒場のシーンのアングル展開もまた素晴らしくて、

まるで雲の上から人の世を一望しているようなシーンだった。





ストーリーの土台こそ法廷ものとしてあるにはあるが、

作品の根底は、「人間の深いところから生まれる “お星様” 」だ。


ほかの黒澤作品からすると演出がロマンティックな気もするが

(監督自身もそう言っていたらしいが)、それはそれでいいし、

例の「山の絵」がどんなものだったか気になりつつも、

大げさな終幕ではないところなど、映画としての佇まいもいい。

私にとっての大切な作品にまたひとつ、出会えたという想いだ。



それにしても、

いわゆる「低俗なマスコミ」の蛆虫っぷりは、今も昔も変わらない。








◆ 『 人生は、時々晴れ 』  2002年  イギリス





マイク・リーの監督作品。

私はかつて『秘密と嘘』を拝見し、かなり驚嘆と感動を覚えた。


とにかく、マイク・リー作品の特徴/制作手法は、なにしろ凄い。


 ・脚本は使わない

 ・監督と役者が個別のやり取りを一定期間おこない、キャラ作りをしてゆく

 ・共演者どうしを事前に会わせない、会う機会があっても作品の話題をさせない

 ・自分以外の誰が何の役をやるのか、事前に共有されない

 ・その日の撮影がどのシーンか、役者には直前まで知らされない

 ・役者は監督から事前に与えられた“人物像”をもって、即興演技で撮影に挑む





「人生とは孤独感と、一人ではないという感覚が複雑に絡み合ったもの」

これは監督の言葉だそうだが、これがこの映画すべてを物語っている。


“家族” という共同体の中にいながら、うだつのあがらぬ日々、鬱積する不満。

かといって何かテコ入れできるわけでもなく、ただ見過ごしながらの、惰性の継続。





誰かが悪いわけではないのに、誰かを責めはじめたら止まらなくなる。

自分だけが悪いわけではないのに、自分がとても悪いということも自覚している。

困窮し、殺伐とした、堕落した雰囲気の家庭ではあるものの、だからといって、

人間どうしの関係に効く “打ち出の小槌” や “魔法の杖” は存在しない。

そんな日々の中、事件は起こるのだった・・・・。





主人公の言う台詞に「一瞬先は闇だ」という言葉があるが、確かにそうだし、

しかしだからこそ、「一瞬先はまぶしいかも知れない」ということも同時にいえる。

原題は「All or Nothing」で、そのままのほうが良かったか?とも思えたが、

いつも曇りか雨ばかりのような人生における、つかの間の晴れ空という意味で、

もしかしたらよくできた邦題なのかな、とも感じた。



起こる出来事は、起こるべくして起こるわけだが、

「その先を選択するのは自分だ」と、この映画は教えてくれている。


尻切れなシークエンスも散見されるが、それもまぁよしとして、

大団円にならない(むしろ逆?な)ところが、とても人生っぽくて、いい。






〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

<閑話休題>

この数ヶ月、自分の公演と公演の狭間に、二〜三本の作品を拝見してはいたのだが、
なかなかレビューまで書ける余裕がなかった。


◆『サルバドールの朝』(2006年・スペイン)は、フランコ独裁政権末期に実在したという反政府主義の青年に関する作品だが、銀行強盗や警官殺し、運動に無関係な恋人までをも巻き添えにして政権に抵抗した思想の「背景」が、まったく伝わってこず、どうも釈然としない。
受け手側への問題提議さえ必要な内容にも関わらず、PVのような映像演出にも甚だ疑問。
刑の執行に至るまでの後半は、数ヶ月前に拝見した『私は死にたくない』と同様に冗長で、どんな方法で処されるのか、どれだけ残虐なのか、果たして間一髪で恩赦はあるのか、など、死刑を扱う映画として非常に浅はかだと思う。一切の共感ができない描き方だった。



◆『扉をたたく人』(2008年・アメリカ)は、アメリカ映画にしては地味なトーンで作られていて、しかし良い作品だった。
妻に先立たれて無気力になった中年の大学教授と、ひょんなことから出くわした中東シリアのジャンベプレーヤー(ただし不法滞在者)とが、まさに「心の扉」を開きつつ交流を深めていく。
それまで移民に寛容だったアメリカが、9.11以降はヒステリックなほどに取締りを強化したという実情が炙り出されていて、かつての移民大国の理念が根底から揺らいでいる。
緊張の面持ちで、教授が広場でのジャンベセッションに初めて加わる瞬間は、抑えた演出ながらも胸に熱いものが込み上げてくる。大国と第三世界の人々を描いているという点で、ヴェンダースやケン・ローチの作品に共通するものを感じた。



◆『マスターズ・オブ・アメリカン・ミュージック ルイ・アームストロング サッチモ』(2009年・アメリカ)は、ジャズの巨匠たちの映像を集めたシリーズのうちの一本。
黒人差別に直面しながらも、激動のアメリカにジャズの礎を築き、また音楽そのものが持つ可能性を大きく飛躍させた“サッチモ”。その強烈な個性と偉大なる功績を、様々な映像と証言で綴る内容だ。
以前に拝見したビリー・ホリデイ編はレア映像が多かった気もするが、こちらは比較的よく目 にしたことのある映像がほとんどだった。しかしもちろん内容としては申し分なく、ルイをまだ知らない方には素晴らしい入門ガイドとなるだろう。


〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜



◆ 『  ヒバクシャ 〜世界の終わりに 』  2003年 日本


出来るだけ多くの日本人に見ていただきたいドキュメンタリー作品。





序盤、

【私は世界で唯一の被爆国にいながら、被爆者と面会した体験がない】

といった語り手の言葉が、心に深く突き刺さった。



核と放射能汚染被害を追った、地道なリポート。



ヒロシマやナガサキ、チェルノブイリのみならず、

イラク戦争でアメリカが放った「劣化ウラン弾」のこと。

いまだにその残骸が及ぼしているという、現地住民たちへの体内被曝。




さらにはワシントン州のプルトニウム製造工場が原因と考えられる、

農作物への影響。

核による「利益」が誰かに与えられている以上、廃絶は実に困難だとわかる。

そして、本作を観ているうち、おのずと、

どれだけ核と放射能が地球上に蔓延しているかも、思い知るに至る。





ふと思ったが、RCサクセションの『COVERS』やタイマーズの活動などは、

この作品の制作時期と奇しくも重なっているのではないだろうか。


しかし長らく、私たちの国政や電力企業は、

そういった警鐘に耳を貸さずにいた。


そしてそれから数年後、東日本大震災による原発事故が起こる。


それでも低線量については、

「すぐには人体に影響を及ぼさないレベル」という不可解な公表。


さらには、次に何かあったら本当に日本の最期、とまで言われる中、

責任の所在も定まらぬうち、原発再稼動の動きが加速している。


この先、

最低でも十万年、

人類が付き合い続けなければならない深刻な課題が、

この映画の中に、重たくのしかかっているというのに。





◆ 『 パサジェルカ 』  1964年  ポーランド




アンジェイ・ムンク監督はアウシュヴィッツ収容所の物語を映画にするべく、

撮影を続けていた。



が、監督は突然の交通事故により、不慮の死を遂げることとなってしまい、

この作品はそのまま、未完の状態になった。







二年後、

ムンク監督に近しかったポーランドの映画人たちが、

作りかけだったこの作品に、 “敬意ある作業” を施した。



ストーリー未完のまま、

残された映像から制作意図を読み取り、一本の映画に仕上げたのだ。






重要なのは、あえて “未完のまま” にして仕上げた点。


監督の方向性はこうこうこうだった、脚本もある、関係者からも取材する、

「だから、我々でこうやって編集し、こういう結末の映画にしてみました」

ではなく、

『 未完の筋書きに決着をつける心づもりはない。

  空白や、言い残した部分の結論も、あえて求めない。

  監督と我々は同世代の人間だ。不安も考えも我々と近い。

  彼の作ろうとする真意はつかめなくとも、疑問の提示は分かる 』

という、

映画監督への最大の敬意を払った状態にしたのである。



出来上がっていた箇所(「女看守」と「女囚人」の、収容所内での日々)は、

そのまま物語として編集され、ひとつのドラマとして追うことができる。


未完の部分(その二人が戦後、客船の中で偶然再会してから)は、

静止スチールでの展開、およびナレーションがつき、

「この物語は、どういう意図、どういう主張があったのだろう」、

「事故に遭っていなければ、どんな映画になったのだろう」と、

すべてを推察の域にとどまらせ、観客と共に考察できるようにしている。





未結は、 未結のまま  ――――――――――。


そう、どれだけ資料や情報が揃っていても、

「結末」は監督本人の脳内と思念の中にのみ存在していた。


いろいろな意味で、

これぞ映画として『実に素晴らしい作品』なのではないかと思えた。








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| - | - | 01:43 | category: Movie |
# 映画と、 絵画と、 観劇と。 (そして告知と)



とにかく年明けからずっと“四日間ワンマン”のために奔走する日々であったため、

映画などを拝見したとてブログでレビューできる時間を捻出することが出来なかった。



そんなわけで、 やっとようやく、 色々と書き連ねる日がやってきた。



先に、 映画を二本。



どちらも敬愛する友人の “Z氏” より、

だいぶ以前からお薦めしてもらっていた作品。



まずは、

この2015年 「最初に拝見したい映画」は、 ずっと心に決めていた作品。



◆ 『 惑星ソラリス 』  1972年  ソ連





もし、 この送り込まれた心理学者クリスが、 仮に「私」だった場合、

ソラリスの “海” は、 果たして「私」の目の前に、 いったい誰を登場させるだろう。


あの女性だろうか、 いや、 もしかしたら、 あの男性かも知れない ・・・・。


そう考えてみる行為そのものが、

深層心理という名の “宇宙” に向かって泳いでゆく作業になっている。





川の中でゆらゆらとする水草の動きは、

能動的に見えて、実は完全なる受動の動き。

意味もなくそれに見とれてしまうのは、

受動に対して無抵抗でいることの証。


私は、 実は、 能動的に無抵抗なのか。





最終的に人間は、計り知れない無限の宇宙(=海)に対し、

「人類の力なんかではどうすることもできない」ことに気付かされ、

水草のように、受動するゆらゆらでしかないことを遂に思い知らされ、

その事実にひざまずくしか、術がない。





『ノスタルジア』では途中で堕ちてしまったが、やっと拝見できたタルコフスキー作品。

私がそこに見たのは、途轍もない哲学宇宙と、芸術宇宙だった。


その “海” での、受動的な浮遊だけが、私にできる唯一のことのように思えた。








◆ 『 ポゼッション 』  1981年  フランス/西ドイツ



確か1〜2年前、ある真夜中のこと、

自宅のリビングでCSTVの映画チャンネルを流しっぱなしにしながら、

パソコンで何かの追い込み作業をやっているとき、いきなり、

奇怪な音楽と共に、不気味な作品が始まった。

ベルリン郊外を映した、それはとても記憶に焼き付くオープニングクレジットで、

脳裏に「きっとこれは、ただならぬ映画なのだろうな」という予感が走ったが、

あいにく翌日が早朝の出発だったか、もしくは寝不足だったかで、

そのまま観るわけにいかず、本編は拝見しないまま、その夜は床についた・・・。


まさかその作品が、Z氏の言っていた “やばい映画” = 本作だったとは。





発狂のぶつけあいが異様におぞましく、己の胸中がえぐられる連続。

この尋常のなさは、いったいどうしたものか。


自傷することの痛み、他傷することの痛み、精神が分裂することの痛み。

その激痛と苦悩だけが、意思伝達の手段となった時の、目も当てられぬ壮絶さ。


しかし物語は、どんどんと理解の範疇を超えた混沌へ、激しく流動してゆく。





役者たちの、もはや演技とは思えはない状態と、後半に差し掛かる驚きの展開。


製作年より7年もあとになってからの日本公開だが、もし当時、

すぐに公開してくれていたら、劇場で映画を観まくっていた中学時代にドンピシャで、

あの頃に劇場で衝撃を受けた『イレイザーヘッド』や『スキャナーズ』と同じ時期だった。

50歳近くの中年として拝見するより、多感な10代半ばに観ておきたかったなぁ。

(それはそれでトラウマも半端なかったと思うがw)





「心理の実体化」という点では、乱暴な解釈をすると、ソラリスと共通している。


今年に入って立て続けに拝見した作品が、どちらもそういった意味を孕んでいて、

きっとそれは、私の表現活動に、大きく掲げられた命題のような気がしてならない。





≪絵画≫

◆ 『 新印象派 ― 光と色のドラマ 』   於:上野 東京都美術館





1月の下旬、なんとか捻出できた休日、かねてから楽しみにしていた美術展へ。


2013年の『モネ展』に行けなかった悔しさ、

さらに同年の『印象派を超えて 〜点描の画家たち』にも行けなかった悔しさ、

やっとのことで拝見できた、点描の名画の数々。

じっくりじっくり、ここぞとばかり、堪能させてもらった。




今から遠い昔、中学校を卒業するときの文集の表紙は、私が描かせてもらった。

それは、一輪の小さな花を、点描にしたものだった。


担任からも両親からも友人からも褒められて、本当に嬉しかった記憶がある。


昔から、点で絵を描くのが、大好きなのだ。


小さな小さな「点」は、 己の中にある「心の点」のあらわれで、

ひとつひとつが、 自分の確かなる想念。


それを丹念に丹念に、一枚の絵として仕上げていく。


そこに、自分の “想いの集結” を感じることができる。





100年以上も前に生きた画家たちの、それぞれの想念が集結した、点描画の数々。

大きな絵の中の、その一粒の「点」に、どれだけ無限の想いが込められていたことか。


線ではなく、すべてを「点」で描き上げることは、本当に気の遠くなる作業だが、

一枚の絵にそれだけ長い時間をかけて、画家たちは、己と向き合っていた。



テオ・ファン・レイセベルヘ
『マリア・セート、後のアンリ・ヴァン・ド・ヴェルド夫人』 (1891年)

ドレスのしわも、奥の壁面も、驚くことにすべて小さな点で描かれている。




アルベール・デュボワ=ピエ
『雪のサン=ミシェル・デギーユ聖堂』 (1890年 )

ひっそりとした雪景色、さびしげな空。

隣接するそれぞれの点の配色を、微妙に変えることで、美しい奥行きを感じさせる。

右端の小さな煙突のオレンジが、(実物を見ると)とても鮮やかで、愛おしい。




マクシミリアン・リュス
『ルーヴルとカルヘゼル橋、夜の効果』 (1890年)

日没の空の「自然光」と、街の夜景の「人工光」と、

さらにはそれらが川に映った「融合光」とを、実に見事に点描写した感動作。

“光を描く”だけでもすごいが、“光を描き分ける(しかも点で)”という驚愕。

本物を目の前にして、震えるほど感動した。



ほかにも、ここに紹介しきれないほどの素晴らしい点描画が展示されている。


展覧会は3月末まで開催されているので、興味のある方は是非。

http://neo.exhn.jp/



≪舞台≫

◆ 『 ハツカネズミと人間 』   於:中野 ザ・ポケット




昨年、私のラジオ番組にゲスト出演してくださり、

また先日の歌イビト語ルのワンマン初日にもお越しいただいた、

女優の安藤みどりさん(俳優座/写真は2014年10月のラジオご出演時)。



今回、みどりさんが客演にてスタインベック原作の舞台にご出演するとのことで、

何をおいても拝見すべく、久々に中野ザ・ポケットへ(ホチキス以来?)。


みどりさんは、物語の中でも特に重要な位置づけの女性「カーリーの妻」という役。

農場の、粗野な男どもの中に置かれる、若く、美しい女(ただし悪い女)。


その魅力的な容姿と立ち振る舞いもさることながら、後半の、

息絶えてからの微動だにしない5〜6分間の演技に、みどりさんの女優魂を見た。

周囲が男性ばかりだからか、女性にしか発せられない特殊な“情調”も際立って、

物語に対する支配感が、進むにつれ高まっていた。すごいなぁ。


2013年に水の輪で共演させていただいた側見民雄さんも出ていらして、

昨年、田無の小屋で歌を聴いていただいた以来の、予期せぬ嬉しい再会となった。





ところで、大好きなスタインベックの作品に心を向けたのも、久しぶりだった。

座右の書のひとつは、何といっても『怒りの葡萄』だが、書くと長くなるので割愛。


この『ハツカネズミと人間』は、原作も映画も拝見しているが、

たぶん今回の舞台にあった「農場で働く者たちのパーティー」のシークエンスは、

原作にはなかった設定(おそらく舞台のために加えられた)だと思う。


このパーティーの場面で「アメイジング・グレイス」が歌われていて、

それがこの舞台における全編のテーマ曲のように位置づけられていた。


あれ・・・ 物語の背景は1930年代のカリフォルニアの農場で、主人公をはじめ、

ほとんどの登場人物が白人たちだが、あの曲は “黒人起源の霊歌” ではなかったか?

・・・ と、いささかの疑問が生じてしまったので、ちょっと調べてみたところ、

いやはや、

「アメイジング・グレイス」は、もともとイギリスの白人牧師が書いた「賛美歌」らしい。

マヘリア・ジャクソンやアレサ・フランクリンの名唱のイメージが先行して、

てっきり黒人起源だと思いこんでいたが、まったくの勘違いだった。


曲そのものは1722年(!)と、かなり古い作品のようだが、

自宅にある[Blues&Gospel Records 1890-1943]を紐解くと、

「アメイジング・グレイス」の最古の黒人録音は、1926年8月、

レヴァランド・H・R・トムリンによるもので、その翌月の9月10日金曜には、

レヴァランド・J・M・ゲイツも吹き込みをしていたことがわかる。


ゲイツ牧師のCDは、確か1枚だけ所有していたはずだ、と鼻息荒げて探したところ、

おぉ、あったあった、1926年録音のCD【Vol.1】を発見。

しかしながら、「アメイジング・グレイス」は未収録で、うーむ、これは残念この上ない。

とはいえ、[Blues&Gospel 〜]をざっと調べただけでも、

1940年代にブラインド・ウィリー・マクテルが夫婦で録音していたり、

はたまたレッドベリーも(やはり)録音を残していたりと、なかなか興味深い。



(J・M・ゲイツ牧師のCDと「アメイジング・グレイス」録音記録の記載箇所w)



誰もが知っている「アメイジング・グレイス」だが、こうした機会で調べてみると、

もともとはイギリスの白人牧師の作品で、しかもその人(ジョージ・ニュートン)は、

かつて奴隷商人をやっていたというから、いやまさに、すごい背景を持った曲だと知る。

今回の舞台を拝見しに行ったことで、またひとつ、勉強させていただいた。





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【おしらせ/無伴奏・独唱 歌イビト語ル 公演情報】

★ 2月28日(土)
  元麻布(麻布十番/六本木):青いひみつきち

  http://www.aoihimitsukichi.com/
  オープンマイク参加(20〜22:00の間に30分出演)

★ 3月7日(土)
  千駄ヶ谷 知人の結婚パーティーにてライブ(詳細は非公開w)

★ 3月12日(木)
  下北沢 NeverNeverLand

   http://www.shimokita-never.tokyo/
   めおと楽団ジキジキのライブにお呼ばれしますが歌うかどうか未定ww
   ⇒ http://www.hotcola.com/zigizigi/

★ 3月21日(土・春分の日)
  鴻巣 西洋料理メイキッス
  神近まりとの春分ジョイントライブ!

   http://www.maykisskounosu.com/
   開場17:00/開演18:00 料金3000円(お一人様/当日のご清算)
   <1プレート付き> ※小中学生無料
   <30名様限定ライブ/残りわずか!
  ●予約フォーム= https://ssl.form-mailer.jp/fms/7601b882285079













 
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【歌イビト語ル】


●トワ金1000回記念ライブ
 歌イビト語ル/真之輔/
 神近まり/フライフラワーズ
 →2019年12月7日(土)
  ※昼13時〜
  ※限定30名様
▼ご予約受付中▼
こちらから!



☆詳細は
公式サイト

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無伴奏・独唱
歌イビト語ル
『人生喜劇ブラボゥ』


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